書を捨てよ、ブログを書こう

日々のあれこれを書いたり書かなかったりするブログ

さよならだけが人生か

春は出会いと別れの季節だ。

僕は別れが訪れるたびに「さよならだけが人生だ」という言葉を思い出す。

 

しかし、今年は卒業式もなくなってしまい、さよならを言いたい人にも言えなくなってしまった。

 

「さよならだけが人生だ」という言葉は、井伏鱒二漢詩である『勧酒』を和訳した際に登場した。

 

『勧 酒』
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ

サヨナラダケガ人生ダ

 

もちろん僕はこの「さよならだけが人生だ」という言葉が好きなのだが、1つだけ気になる箇所がある。

 

それは、井伏さんがさよなら「だけ」と言い切っているところだ。

 

別れがあれば、必ずが出会いがあるとよく言うように、人生はさよならだけでできているわけではないと思う。

本当にさよならだけが人生か。

 

井伏さんのこの言葉を受けて、寺山修司は以下のような詩を作っている。

 

『幸福が遠すぎたら』

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
建てた我が家は 何だろう
さみしいさみしい 平原に
ともす灯りは 何だろう

 

さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません 

 

別れがあれば出会いがあるように人生はさよならだけで語れるほど、単純なものではない。しかし、さよならの数が多いほど厚みを増していく気がする。

 

今回はあまり考えずに思ったことをつらつらと書いてしまった。

 

とりあえず言いたかったことは、卒業式くらいはやらせてくれ、そしてさよならくらい言わせてくれいうことだ。

 

卒業式がなくなったことで、もう二度と会うことのない人もきっとたくさんいる。そんな人たちと巡り巡ってどこかで再会できることを祈りつつ、新たな出会いに期待したい。

人生はさよならだけではないと信じて。