縁
4年間続けてきたラーメン屋のバイトを明日を最後にやめる。
ただの学生バイトだった僕のためにわざわざ送別会まで開いてもらい、感謝が絶えない。
その席で店主がしきりに「死ぬなよ!」と言ってくれたのが、印象に残っている。
確かに社会に出た若者が過労死であったり、鬱病の末、自ら命を絶ってしまうという話は昨今珍しいことではない。むしろ、よく聞く話だ。
店主は「死ぬくらいだったら逃げればいい」と言ってくれた。偶然、最近僕の母親からも同じようなことを言われたので、驚いた。
「逃げる」という行為にはどうしても背徳感が付き纏うが、「逃げる」ことも1つの勇気だと思う。
「逃げていいんだ」という気持ちを持ってるだけで、心に少し余裕が生まれる気がする。
そういうことにちゃんと気づかせてくれる大人周りにいてくれるので、僕は本当に人に恵まれているなと改めて感じた。
これまでの人生の中でも苦しい時やどうしようもない時には、不思議といつも誰かがいてくれた。
それが家族であったり、友人であったり、恋人であったり、特定の人物ではなかったのだが、誰かに支えられながら、時には僕が支えながら生きてきた。
こうやってできた繋がりを僕の中では「縁」と呼んでいる。
辞書的に正しい使い方なのかは分からないが、僕はこの言葉が好きだ。
「縁」は繋がったり、途切れたりを繰り返しながら、遠回りをしたりして、思わぬ形で自分の元に戻ってくると信じている。
それを「運命」だとかそういった言葉で表現したりするのだと思う。
このバイトでも新しい「縁」ができた。
店主は「お前がどうしようもなくなった時は、ここに戻ってこい。俺がお前を日本一のラーメン職人にしてやる。」と言ってくれた。
ラーメン屋になるつもりは全くないのだが、この言葉を聞いたときに「この4年間は無駄じゃなかったな」と思った。
受けた恩はいつか返したいな。
競馬の魅力
『ザ・ロイヤルファミリー』という本を読んだ。
この小説は簡単に言ってしまうと競馬の馬主とその家族、関係者、そして馬の物語である。
今回話したいのは、本の内容ではなく、競馬というものの魅力である。
最近、僕は競馬というものに熱中している。
22歳にして競馬に熱中し、プロ野球を愛しているなど趣味が完全に40代から50代の男性である。
そんな体裁などどうでもいいほど、競馬に魅力を感じているのだ。
もちろん馬券は買うが、なかなか当たらない。一般的に馬券の回収率は75%と言われているため、儲かることを期待してはいけないのだが、大波乱が起き、高配当がついたレースなどを見ると、ついつい夢を見てしまう。
馬券の予想やレースそのものは当然、競馬の魅力の1つであり、一筋縄ではいかないところが非常に面白い。
絶対的一番人気の馬が勝つと思いきや、二桁人気の馬が勝つこともあるし、人気になった馬が全く馬券に絡まないレースも少なくない。
しかし、僕が競馬に一番魅力を感じているところは「血統」である。
競馬はブラッドスポーツである。血の繋がりがとにかく重視されるのだ。
もちろん強い馬の子供が必ず強いとは限らないし、逆に大した実績のない馬の子供がやたらと走ることもある。
そういう上手くいかないところが面白いと思っていた。
しかし、競馬というものは僕が思っていた以上に多くのものを背負っていると小説を読んで思った。
以下、『ザ・ロイヤルファミリー』で印象的だった一場面である。
競馬における一番の魅力は「継承」です。馬の血の、ジョッキーの思いの、そして馬主の夢の継承に他なりません。
いえ、それは馬主だけに限らないのでしょう。調教師も、牧場スタッフも、ファンも、それこそ私のような末端の人間に至るまで。競馬にかかわるすべての人たちが、今この時代にある「希望」を次の時代へと継承する、その役目を担っているだけだと思うのです。
競馬は関係者はもちろんのこと、馬券を買うだけの一般人に至るまで、何か「夢」や「希望」を馬に託してレースの行方を見ている。それが大きいものであれ、小さいものであれ、僕らはそれらを次の時代に継承する役目を担っているというわけだ。
もちろん、競馬はギャンブルである。
しかし、ただのギャンブルを超えた「何か」がそこには存在しているように思う。
お金を賭けている以上、親に心配されることや、将来家族に怒られるようなこともあるかもしれない。
しかし、僕の好きな馬の子供を僕自身の子供が好きになってくれたらどんなに面白いだろうか。
そんな些細な夢を見させてくれる小説だった。
球春到来
早いもので今年になってからもう1ヶ月が経った。
こんな調子では1年など一瞬で終わってしまいそうだが、今年もまた楽しみな季節がやってくる。
この2月1日はプロ野球ファンにとって特別な日だ。
長く寒いオフシーズンが明け、各球団が一斉にキャンプインし、スポーツニュースなどでも一気に野球の話題が増える。
言うまでもなく、こんなことを書いている僕は野球が好きであり、中日ドラゴンズのファンである。
ドラゴンズを好きになった理由はよく分からないが、幼い頃からドラゴンズは僕のそばにあった。
ドラゴンズファンであった父の影響で実家のテレビをつければ、ドラゴンズの番組や試合中継が流れ、中継が終われば、ラジオで試合の経過を聴いていた。時には家族でナゴヤドームに足を運んでいた。
何というか自然の流れでドラゴンズを応援しているわけだ。
しかし、ここ数年、ドラゴンズは弱い。
優勝など夢のまた夢で、最近は3位に入りクライマックスシリーズに出ることも叶わない。
僕が小学生の頃、ドラゴンズは今より遥かに強かった。
「優勝する時もあれば、悪くても3位の成績でシーズンを終え、クライマックスシリーズでいい試合をする。」
当時の僕はこれが当然だと思っており、広島や横浜のファンの人は何が楽しくて弱い球団を応援しているんだろうとか思っていた。
広島や横浜のファンの方々申し訳ない。
しかし、不思議なことに僕はドラゴンズが弱くなってから、より一層応援するようになった。
一戦一戦が面白いのだ。
強かった時のドラゴンズは毎日そんなに熱心に観ていなくても、どうせ勝つだろうと思っていだが、弱いとそうはいかない。
1勝の重みが今までとは違う。
だからこそ、勝てば今までより嬉しいし、負ければ悔しい。
当然酷い負け方をする時もある。
「もう二度と観るか」と怒りを爆発させる時もある。
そんな時でも次の日には、試合中継や一球速報を見て、また一喜一憂している。
二重人格を疑うような豹変ぶりだが、野球ファンとはこういうものなのだろう。
そんな一喜一憂の季節が今年も始まる。
ドラゴンズブルーのユニフォームを纏った戦士たちは今年はどんなドラマを見せてくれるのだろうか。
楽しみで仕方がない。
所信表明的なもの
そうだ、ブログを書こう!という感じで突然ブログを始めようと思ったのだが、そもそもブログとはなんぞやと思ったので調べてみた。
「webにlogする」という意味のweblogの略語がブログなんだとか。知らなかった。また1つ賢くなってしまった。
とりあえず卒論やらなんやらも無事終わり、あまりにも暇になったので学生生活最後になんかやろうと思って始めてみた次第だ。
誰に読んでもらうわけでもないのに「まず、タイトルが重要だ」という思考に至り、タイトルで小一時間悩んだ。なかなかしっくりくるものが思い浮かばず、本文を書くまでもなく挫折を味わうところだった。
結局、部屋にある本棚を眺めていたら、僕の好きな歌人である寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』が目に留まり、それをもじっただけのタイトルになってしまった。寺山さんには申し訳ない。発想力が足りない。
タイトルの意味について少し書く。
「書を捨てよ」という割には寺山さんは読書家であったようで、「書を捨てる」という選択をするには、どうやら「書を読む」必要があるようだ。
これは他の物事にも通じることで、例えば、僕は「貝類が嫌い」だ。すごく嫌いだ。お世辞にもおいしそうとはいえない見た目が気持ち悪い。
でも、これは産まれた時から嫌いであったわけではなく、僕がかわいいかわいい幼稚園児だった頃給食で食べたあさりを吐いたトラウマにより、僕は貝類全般が嫌いになった。
食べてみるということを経験して、はじめて「貝類が嫌い」という選択をとることができるのだ。
簡単に言うと、「食わず嫌い」もとい「やらず嫌い」はやめようという話だ。『書を捨てよ、町へ出よう』というタイトルへの自分なりの解釈だ。
僕も最終的には「書を捨てて」、自分の言葉でこのブログを表現ができるようになればと思ってつけたタイトルである。少し書くとか言った割には長文になってしまった。
さて、そんなタイトルのブログに何を書こうかという問題だが、
充実した日々の中で感動したこと、印象に残ったこと、素晴らしい体験をしたこと、などではなく、
僕が頭の中で妄想したこと、僕の好きな小説家やアーティストがいかに素晴らしいか、プロ野球の愚痴、競馬で負けた怒りなどをこのブログに吐き散らかそうかという所存である。ちなみに筆者は22歳である。22歳にして野球と競馬が趣味とは果たしていかがなものか。
まあどんなことにせよ頭の中で考えていたり、心の中に留めておくだけじゃ忘れちゃうようなことをちゃんと文字という形にしてどこかに残そうという試みだ。
僕の好きなバンドであるamzarashiの秋田ひろむがあるライブの最後のMCで「言いたいことは言うべきです。どんな状況においても。」と言っていた。
どんな状況においても言いたいことを言える人などいるのだろうか。
嫌いな人に向かって、「嫌いだ」と言えば、当然相手は傷つく。好きな人に向かって「好きだ」と言ったとしても、相手から望んだ答えが返ってくるとは限らない。
ほとんどの人は不安であったり、プライドであったり、人間関係のしがらみに囚われて、言いたいことの半分も言えていないのではないか。
別にそれが悪いことだと言いたいわけではない。
皆何かしら伝えきれなかったことを抱えて、悶々としながら、それでも毎日生きているんだと思うと、急に人が愛しくなる気がするのは僕だけだろうか。
道ですれ違った高校生であったり、終電で出会った酩酊のおっさんにさえも「頑張ろうな」と声をかけてあげたくなる、気がする。
初回はこんな感じにしておこう。
つらつらと書いたが、一番の目的はブログを書くことでシンプルに自己満足感を味わい、部屋で一人、達成感に浸るということです。
おしまい。